滝川博士の息子の剛はムー原人のために重傷を負ったが、滝川博士の発案で人工心臓SPを移植され甦った。 だが滝川調査隊は全員殺され、剛も殺されそうになった。 その時、父の形見のペンダントの力が奇跡を呼んだ。剛は伝説の鉄人タイガーセブンに変身する力を手に入れたのだ。
それ以来、剛は滝川博士の遺志を継ぐ高井戸博士のグループと共に、ムー原人との戦いを開始したのだった。
ビジュアル的になんとも不気味なムー原人。神秘の力で変身する力を得た主人公・滝川剛。 オカルト路線としての設定には申し分無いが、しかし不幸にも時代はこの作品の方を振り向いてくれなかった。
あいにく世の子供達は神秘的な妖怪ではなく、科学の申し子・スーパーロボット「マジンガーZ」に夢中になっていたのだ。 そして更に、ヒーローものとしてもこの作品、様々な要因で爽快感に欠けており、結局人気は出ずに2クールで終了した。
ヒーロー側の組織である高井戸グループ、彼らは滝川考古学研究所の面々であり、要はただの学者集団だ。 体力が特に優れているわけではないので、ムー原人相手では肉弾戦では全然かなわない。 しかも科学者でもないので、最新兵器を発明してムー原人と渡り合うわけではない。 つまり設定上、ムー原人と出会っても彼らはほとんど役に立たないことが最初から分かっているのだ。 主人公チームによる敵とのアクションというのはヒーロー登場前の盛り上がりに非常に有意義な要素だが、本作の設定はそれを最初から捨てているに等しい。
そしてタイガーセブン。ピープロの前2作であるライオン丸と比べると、デザイン的にはどことなく可愛さすら漂ってくる。 おまけに戦いの方も、タイガーセブンの最大の必殺技はファイトグローブ。平たく言えば単なる手袋だ。 これでチョップしたり飛ばしたりして敵をスパッと切り裂くのだが、特に初期は低予算ゆえか、ビジュアル的にもなんだか盛り上がりの欠けるものだった。
とまあ以上のように、ピープロの読み通りに妖怪ブームが来ていたとしてもヒットするかどうか分からない作品であった。 とりあえず、マニアックな特撮ファンなら見てもいいかも、と言っておこう。
…などといったことだけで終わるのはもったいない。って、このパターン前にもやったぞ。
えー実は、本作は特撮ファンの間で語り草となっている逸品である。 この作品、何が凄いのか。 本作は前作「風雲ライオン丸」に続き、ヒーローもので特異なリアルさを追求したものだったのだ。
最初の方こそ、藤川桂介と上原正三というベテラン脚本家が手堅いヒーロー話を作っていたこの作品。 が、中盤で高際和雄が参加してきた途端、様相が一変してくる。
高際和雄は前作において主人公の獅子丸に挫折を与えた張本人だった。 彼こそ「風雲ライオン丸」のカラーを決定したと言っても過言ではない。 その彼がこのタイガーセブンという作品で描こうとしたものは何か?
前作は戦国時代という舞台がある以上、戦う変身ヒーローは社会的にも肯定的に迎えられる。 変身ヒーローと言えども単なる一人の戦士として扱われ、結局獅子丸に与えられた試練というのは、ヒーローというよりは一人の若き戦士に対するものだったのだ。 が、本作では時は平和な現代、しかも敵の存在自体も秘密になっている。 こんな状況下では、変身ヒーローは社会においても特異な存在となる。簡単に言えば、変身ヒーローのお約束に縛られた存在になるということだ。 高際はそこに目をつけた。そう、彼は本作において、結局前作では描けなかった、変身ヒーローであるが故の試練を描こうと試みたのだ。
ヒーローものにおいて本来ならばタブーとなるトピックの数々。パロディーでしか存在し得ないはずのもの。 それまで藤川桂介や上原正三が巧みに御都合主義でかわしてきたものを、高際和雄は正面から描いてしまったのだ。
変身するために姿を消した剛を、戦っている最中に逃げたと非難する仲間。 ヒーローもので決して描いてはならないこのシーンを、高際は平然と描いた。 パロディーのギャグシーンではない。大真面目に、である。
もっと凄まじいのがこれ。特撮ファンの間では非常に有名なシーン。 バイクに乗っていた剛は敵と戦うべく、バイクからジャンプして変身する。カッコいい! …が、無人となったバイクが子供をはねてしまう。 念のため言うが、ブラックなパロディーシーンではない。大真面目である。
滝川剛がヒーローであるために迎えてしまう苦難の数々。 本来そんな苦難というのは敵との戦いのみであり、味方サイドの余計なもめ事は御都合主義的に無視されるのがヒーローものの鉄則だった。 そうでなければヒーローのカタルシスなど得ることはできない。 だが高際はカタルシスなどには全く興味を示さなかった。 むしろ敵との戦いよりは、人間・滝川剛とヒーロー・タイガーセブンの狭間に目を向けて、そこから生まれる苦いものをどんどん搾り出していったのだ。 ヒーローもののパロディーを描くためではない。ヒーローであるが故の試練、そしてそれを乗り越える主人公を描くために、である。
次々に剛を襲う試練。最後、ついに彼は戦いを放棄してしまう。 前作の獅子丸にも同様なことがあったが、それは敵に恐怖したからだった。戦士である彼が戦いから逃げる理由はそれしかない。 が、ヒーローである剛は違う。自らがタイガーセブンであることが嫌になったのだ。 彼は自らのヒーローとしての重みに耐えられなくなったのだ。 そんな中、ムー原人の最後の攻撃が始まる。
獅子丸には結局挫折しか訪れなかったが、滝川剛は試練を乗り越えたのか? それは実際に見て判断してほしい。
ヒーローものとしては明らかに異色な本作だが、時はヒーロー過剰供給時代。 正統派ヒーローが乱立していたからこそ、本作品は存在できたとも言える。 この時期のヒーローものなんて御都合主義のお子様ランチだよ、と思っている人がいたら、前作「風雲ライオン丸」と共に本作をお薦めしたい。
ムー原人はどうやって生まれてくるのかよく分からないが、妙に和風なカッパ原人や、妙に現代風なコールタール原人、更には妙にアバウトな名前の植物原人など、なんだか謎な連中である。 更に、ムー帝国とは全く無関係に現れる鼠原人や犬原人などもいて、原人とは一体何者なのか全くの謎である。
そしてムー帝国には戦闘員も存在する。その変な顔で敵を笑わせてその隙に倒す…わけはないが、なかなか面白い顔である。