大阪まで徒歩と電車で23分の園田には弥生時代の遺跡があります。
園田は、太古の昔から豊穣な土地と川と海がありました。
今は同じ尼崎にある武庫川は氾濫を繰り返す川でしたが
それに対して園田の猪名川は穏やかな流れでした。(同じ尼崎でも武庫川の川沿いは砂利が多く猪名川の川沿いは土でできています。)
ゆったりした流れの猪名川は、上流より肥えた土を運んで来て豊穣な土地を醸成しました。
また当時は淀川の本流だった神崎川も大阪湾に流れ込んでいて 海は魚介類の宝庫となっていました。
同じ園田にある東園田遺跡ではイイダコを捕るための蛸壺が多数発見されています。
田能遺跡は園田の北の端-現在の地名で尼崎市田能-にあります。
日本で稲作の始まった弥生時代の遺跡です。
近畿地方では初めての弥生時代の墓が見つかり遺跡としての価値が高く国指定の遺跡になっています。
江戸時代の田能村の猪名川の対岸に田能遺跡があります。
自然堤防の上にできた弥生時代の集落で多数の竪穴式住居のための柱穴・おびただしい土器のかけらが見つかりました。
本格的に発掘すると
木棺(木製の棺桶)
壺棺(遺体を土器の中に入れて埋葬したもの幼児の遺体)
遺骨
白銅製釧(はくどうせいくしろ;金属製腕輪-鋳造品木棺の埋葬時に腕に付けられていました)
碧玉製管玉(青い宝石に穴を開けてネックレスのようにしたもの)
石器(石の鏃など)
銅剣鋳型(銅製の剣【両刃の刃物】を鋳物で作るための鋳型)
石包丁(稲穂を刈り取るための包丁;薄い板状の石で穴がふたつあいています)
などが発見されました。
銅剣鋳型・白銅製釧・碧玉製管玉は県指定の文化財となっています。
発掘あとは埋め戻されその上に田能資料館・高床式倉庫・竪穴式住居・平地式住居などが復元されています。
田能資料館正面
左側は
他の遺跡の記の石碑
高床式倉庫
収穫物を
湿気や
ネズミの侵入を防ぐために
高床式になっています。
柱の上と階段の上部に
ネズミ返しが付いています。
(注:以下に述べる近松門左衛門墓所の広済寺は園田村大字上坂部に隣接している小田村大字久々知にあります。正確にいうと園田ではありませんが300mほどしか離れていませんのでご理解下さい。)
近松門左衛門(1653年-1725年)さんは江戸時代に活躍した人形浄瑠璃の作家です。
曾根崎心中(そねざきしんじゅう)・冥途の飛脚(めいどのひきゃく)・心中天網島(しんじゅうあまのあみじま)・女殺油地獄(おんなごろしあぶらじごく)などの現代でも演じられている浄瑠璃を書いた人物です。
心中もの物語は特に有名です。まねをするものが出るという理由で上演が江戸時代は禁止されていたこともあるそうです。
近松門左衛門さんは、日本のシェークスピアと呼ばれているそうです。
近松門左衛門さんを応援していた豪商の親族が園田の広済時の住職であったことから生前広済寺で執筆していました。近松門左衛門さんが亡くなった時に分骨されました。近松門左衛門墓所は、大阪と2カ所にあります。
広済時は妙見宮として江戸時代は有名で能勢の妙見山とともに参詣者がありました。
園田の広済寺
近松門左衛門さんの
お墓
中央の小さい石が
墓石です。
近松門左衛門さんの銅像
有馬道は大阪(当時は大坂)から有馬温泉に通じる道路です。
難波宮(7世紀後半)から日本三大名泉の有馬温泉に通じる道として作られ天皇や貴族・武家などが往来したと言われています。
大坂から神崎川を神崎の渡しで神崎村に着いたあと北上して小中島で藻川の堤防を少し北上し瓦宮で北西に進路を変え猪名寺廃寺跡・伊丹を通って宝塚有馬に至ります。
神崎には道標があります。
神崎の渡しから来て道標を右に進むと瓦宮を通る本道
左に進むと久々知の上記広済寺(江戸時代は妙見宮と呼ばれて参詣者がありました。)に通じる間道(別名-妙見道と呼ばれています。)です。
元禄国絵図模式図
元禄国絵図 抜粋 今の淀屋橋から有馬道が繋がっています。神崎の渡し(今の神崎大橋付近)を渡って北上すると瓦宮・猪名寺廃寺跡伊丹へ通じます。
猪名寺は大字の地名として残っているに過ぎませんが白鳳時代から室町時代末期にかけて法隆寺と同じ規模の伽藍がありました。海路で京へ上る入り口となる神崎からでも猪名寺が望めたそうです。織田信長の伊丹攻めで消失し再興されなかったので今は礎石のみが残る廃寺跡となっています。
「百人一首の
有馬山 猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
大弐三位」
に代表されるように「猪名の笹原」は荒涼寂寞とした情景を醸し出す和歌の枕詞です。
猪名は和歌の名所・歌枕の地です。
実際には戦後藻川が大改修されるまでは河川敷だけは、笹・竹の類で覆われていました。
平安時代の初めの頃まではとくに猪名寺廃寺跡より北の地域は伊丹段丘と言って少し小高くなっており水田には適さず長く荒野であったと推察されます。
そのような水田には不適なところには橘が植えられ園田の名前の由来となった「橘御園(たちばなのみその)」と呼ばれる果樹園の荘園が作られていました。
私の住んでいる瓦宮村も「橘御園」に名を連ねていたそうですが、「大井組(おおゆぐみ)」呼ばれる用水を猪名寺廃寺跡近くの藻川の「大井堰(おおゆのせき)」から取り次第に開発して水田化したそうです。
昔の荒涼索漠たる「猪名の笹原」は面影がなくなってしまいました。