それから、丸一日が経過した。
 砂漠の夜は冷える。街の中とて例外ではない。いくらプラントがエネルギーを供給しても、星全体を覆う温度を変えることはできない。──否、この大地は元から人間の居住に適切な場所ではなかったのだ。その不毛の地にプラントは人間が住まうことができるほどの奇跡をもたらした。それだけでも“彼ら”の功績は計り知れないだろう。
 凍てつく寒さをやわらげるのは、暖かなぬくもりだけだろう。火で暖を取ることも、優しい人の想いに触れることも、方法は違えどどちらもぬくもりである。そして、このカルカサスの教会には心の温もりが満ちていた。
 ウルフウッドの傍らで祈るように両手を組み合わせ、目を閉じていたヴァッシュがふと顔を上げた。
「…来た…」
 直後、遠くからかすかにエンジンのうなりが響いてきた。ミリィも顔を上げ、メリルが立ち上がる。
「外を見てきますわ」
「多分シップの先生…お医者さんが来たんだ。メリル」
「ええ。こちらまでご案内します」
 立ち上がろうとしたヴァッシュを制して、メリルは街の外へと飛び出した。
 まず大通りに出ると、エンジン音が聞こえてくる方向を確認した。そちらへ走り出すと、道の向こうから一台のトラックが砂煙を上げて近づいてくるのが確認できた。
 トラックに乗っていたのは二人。一人はシップで見かけた老人だが、もう一人は彼女の記憶にない顔だった。
 メリルと同年代らしい、品の良い顔立ちの青年である。一見、生真面目そうな印象を受けた。
 布で覆われた大きな荷物がくくりつけられたトラックは、メリルの姿を認めたらしく、彼女の近くで動きを止めた。車上にいた老人が話し掛けてくる。
「お嬢さん。病人はどこかの?」
「こちらですわ!この道を進んで左手の教会です!」
「急がんとな。さ、あんたも乗ってくれ」
「は、はい」
 メリルが足踏み台に立つのを待って、トラックは動き出した。
 ほどなく十字を掲げた教会に辿り着く。
「クリス、機材を頼む」
 地面に降り立った老人はこれだけを言い置いて、建物の中に入っていった。
 クリスと呼ばれた青年は、荷台のロープをほどいて覆いを取ると、括りつけられていた大小様々の機材を降ろし始めた。
 今までに見たこともないそれらがどういう機能を果たすのかはわからなかったが、唯一これがウルフウッドを助ける為に必要なものだということはメリルにも理解できた。
「何かお手伝いできます?」
「プラントまでの距離を教えて下さい」
 思いがけない質問にメリルは一瞬戸惑ったが、プラントの位置からおおよその距離を彼に告げる。
「では、こちらに降ろす機材を中に運んで下さい」
 丁寧な口調だが、どこかそっけない彼の口振りは、他人と関わりを持ちたくないという意思表示の現われのようにも感じられる。
 そんな言葉少なの返答だったが、メリルは早速ひとかかえの機材を教会内に持ち込んだ。
 中では老人がウルフウッドを診ていた。ヴァッシュとミリィは傍らで不安そうにその様子を見守っている。
「……ふむ。最低ラインじゃが脈もあるし呼吸もある。すぐ手術にかかろう」
 助かるかもしれないというかすかな希望に、二人の顔がわずかに輝く。
「お願いします、先生。こいつだけは、どうしても助けたいんです」
「わかっとる。まずは機材を運び込まんとな」
「わ、私もお手伝いします!」
 ウルフウッドの手をそっと毛布の上にのせると、ミリィは立ちあがった。荷物を持ったままのメリルを見た瞬間、思わず涙が溢れ出す。
「せんぱ…あ、そ、外ですね?私も荷物運びます!!」
 思いのほかしっかりしたミリィの声に、メリルもまた元気付けられた。いつの間にか立ち止まっていたのだが、足早にウルフウッドの近くまで歩み寄り、そっと機材を置く。すぐにミリィも機材を抱えてきた。
 老医師の了解を取り、ヴァッシュも機材運びに加わった。
 メリルが外に出ると、あの青年の姿は見えなかった。しかし、降ろされたいくつかの機材が無くなっていることから、おそらく、彼はプラントへ向かったのだと思われた。
 シップの機材はロストテクノロジーの塊だとヴァッシュが話してくれたことがある。それを使う為に、プラントの動力が必要なのだろう。
 ウルフウッドの傍で手術の準備を始める老医師の指示に従いつつ、三人は届けられた機材を教会の中へと運び込んだ。
 やがて準備がほぼ整った頃、教会の扉が開き、あの青年が姿を見せた。
 ヴァッシュの目が、彼に釘付けになる。無言で近づく青年に対して、絞り出すような声で、彼は話しかけた。
「…君は、クリス…かい?」
「ええ。お久しぶりです、ヴァッシュさん」
「クリスはわしの助手をしておるんじゃ。今回は自ら同行を申し出てくれた」
「そうなのか…。ありがとう、クリス」
「いえ、医学を修める者として当然の務めです」
「………」
「急ぎましょう。先生、これで電力が確保できます」
「よし、始めるぞ」
 手術準備の為にウルフウッドの周囲に張られた透明なシートの中に、老医師とヴァッシュが入る。クリスは外から機器のチェックを始めた。
「あ、あの…!」
 老医師とヴァッシュが振り向くと、ミリィがすがるような表情を浮かべていた。
「私も中に入らせてもらえないでしょうか。…牧師さんの側にいたいんです」
 専門的な作業に入ってからは、ミリィには手伝えることが無くなったため、彼女はずっとシートの外からウルフウッドに話しかけ、彼を励ましていたのである。
 老医師はひとつ頷いて見せた。
「眠っておっても患者には周囲のことがわかるものじゃ。手を握っていてやると良い。彼も安心するじゃろう」
「ありがとうございます!」
 二人に続いて、ミリィもシートの中に入った。
 手術を行う二人の邪魔にならないよう注意しながら、ミリィはウルフウッドの傍らに立ってその手を握り締める。
 そして、手術が始まった。


 手術が終わったのは半日後。既に夜は明けていた。
「もう心配はいらん。後は意識の回復を待てばよい。安静にさせておくんじゃぞ」
 ヴァッシュの、メリルの、ミリィの、それぞれの顔が輝いた。
「牧師さん…!よかった……!!」
 ミリィがその場に膝をつき、ウルフウッドの手を握り締めたまま顔を伏せた。安堵の涙が頬をつたう。
 後輩を見つめていたメリルの表情が和らいだ。
 ヴァッシュが老医師の手を取る。
「先生、ありがとうございます!!」
「よかったの、ヴァッシュ」
「…はい…!」
 飄々とした返事だったが、この老医師の言葉に込められた万感の思いに、ヴァッシュは力強く応える。
 長時間の手術を終えた老医師は、付近の宿屋に移した患者のことをメリルとミリィに任せ、しばし休息を取ることになった。
 一方、助手のクリスは機材の片づけを始めていた。必要最低限のものを除き、機材をまとめてトラックの荷台に運ぶ作業を、手の空いたヴァッシュも手伝う。
 荷物運びが一段落つくと、ヴァッシュは車の荷台に機材をひもで固定させていたクリスに話しかけた。
「本当にありがとう、クリス」
 クリスがわずかに手を止める。たが、すぐに彼は手を動かし始めた。
「それは先生へ言うべきでしょう」
「君がいなかったら、先生はここまで来られなかったよ。執刀こそしなかったけれど、君がいてくれたから手術も滞りなく終わったんだ。いくら感謝してもしたりないくらいだ」
「では、そのお言葉はありがたく受けさせていただきます」
 ヴァッシュは少し寂しそうに笑った。横目でその笑顔を見たクリスは、荷物をまとめ終えてからヴァッシュに向き直る。
「彼はあの時、シップで戦っていたんですね」
「ああ、そうだよ」
「貴方と一緒にシップを守ろうとした人、ですね」
「…クリス?」
 ヴァッシュが不思議そうに彼の名を呼んだが、クリスはそれを無視して荷物に目をやり、手を触れた。
「あの時、僕らは何も出来なかった。何もしなかった。立ち上がったのはブラドだけ…そのブラドも、今はもうこの世にいません」
「……」
「立ち上がったからこそブラドには貴方を批判する権利があった。あの時シップで唯一批判できる立場にいた彼が、貴方を庇って……」
「──許してくれ、とは言わないよ。いや、言えないから…」
「銃を撃つってどんな感じですか、ヴァッシュさん」
 淡々と話し掛けていたクリスの声音がわずかに変化する。
 その瞳は射るような鋭さでヴァッシュを見つめていた。
「シップでは銃なんか必要なかった。外敵なんてものはなかったし、僕らはただ平穏が続くよう、プラントの調整を行っていればよかったんです。でも、今は違う。身を守るために武装しなくちゃいけない。あんなにも簡単に人を殺める道具を、どう扱えばいいんですか?」
 ヴァッシュは即答しなかった。
 クリスは真摯な瞳で答えを求めている。
 長く感じられた沈黙の後、ヴァッシュがゆっくりと口を開いた。
「銃を何のために使うのか。……銃は必ず他人を傷つける」
「え?」
 意外な言葉に青年の気勢がそがれた。
 そんな彼に対して、ヴァッシュは静かな瞳を向ける。あまりに穏やかであまりに深い色をした青碧の瞳を。
「いくら綺麗事を口にしても、銃はあくまで道具なんだ。他人を傷つけることでしかその力を発揮しない。本当ならこんなものは使わないに越したことはないと思う。…でも。例えば誰かを守るため、助けるため、銃を使わざるを得ないことがある。そんな時、自分の信念を貫くしか……ないんじゃないかな」
 星全体に名を轟かせるガンマンの台詞とは思えない言葉を、ヴァッシュが紡ぐ。
 自分の行動を否定するような彼の言葉に、クリスは咄嗟に明確な反論が出来なかった。
「──それが、悪意から来るものであっても?」
「そうだな……クリス、どうして人は罪悪感を持つと思う?」
「倫理があるからでしょう」
 彼の言葉に、ヴァッシュが小さく笑う。
「そうだね。そして人が優しいからじゃないかな。人が罪悪感を抱く心を持っている限り、信じられると思うんだ」
「理想論を聞きたいわけじゃないんです。じゃあ何故あなたは銃を持っているんですか?あなたなら、何か答えを知っているんでしょう?」
「…銃を持つのは、それしか手段を知らないからだよ。僕は他の方法を知らない。撃つことでしか守ることが出来ないんだ」
 ヴァッシュは目を伏せた。視線の先にあるコートの下には、彼の愛用している鈍色の銃がおさめられている。
 そして、彼は再び眼前の青年に視線を戻した。
「多分、答えは出てないよ…」
「……」
「ただ、そう思うだけなんだ。皆、それぞれに信念を持っている。ウルフウッド──彼と僕とでは、信念は全く違うだろうし、いつも衝突しているんだけど、でも、考え方は近いのかもしれない。それにね」
 ヴァッシュはひとつ息をつくと、少し明るい口調で言葉を続けた。
「こういう問題は一人一人が自分で結論を出さなくちゃいけないものじゃないかな。他の人の意見は参考にはなるけど、自分の意見じゃないだろう?」
「…わからない」
「クリス…」
「貴方を庇ったブラドの気持ちも、明確な答えを示さない貴方も、そしてアウターの世界も……何ひとつ」
 クリスがきびすを返し、歩いてゆく。
 ヴァッシュは彼を追わなかった。ただ、その後ろ姿を見送るのみである。
 歩み去る彼の姿が視界から完全に消えてから、ヴァッシュは呟いた。
「…僕も、自分の考えを持っているわけじゃないんだ」
 どこか寂しげで、うつろに響いたその声は、ひとつの砂塵にかき消された。


「クリス。そろそろ戻るか?」
 眩しい太陽がその強い光を少しだけゆるめ始める時間。
 街外れでぼんやりと砂漠を眺めていた青年に、背後から近づいた老医師が話しかけた。
「そうですね。彼の容態は、もう?」
「あとは目覚めるのを待つだけじゃ。心配いらん」
「それは良かったです」
 儀礼的な言葉を返すクリスは心ここにあらずといった態である。老医師は彼の側に立ち、砂漠を吹くかわいた風の音に耳を傾けた。
「あやつとは話したんじゃろう」
「ええ」
「満足できんかったようじゃな」
「納得できなかっただけです」
 言下に切って捨てるようなクリスの物言いに、老医師は苦笑した。
「なぁ、クリス」
「なんでしょうか」
「あやつは万能ではないんじゃよ」
「………」
「怒り、泣き、笑い、悲しむ。長く時を生きている分、その想いもまた深いんじゃろうて。あやつは決して忘れようとはせん。全てを背負ったまま生きて行くんじゃ。……恐らく、わしが死んでも、おぬしが死んでも、生き続ける限りはな」
「………」
「不器用な男じゃ」
 風に砂が舞う。
 シップからは映像としてしか見られなかった光景だった。砂漠の大地に降りるなど、ついこの間まで空に浮かぶ船の住民である誰に予測しえただろうか。
「…どうしてですか」
「ん?」
「どうして、そう思うんですか?」
 現在もシップの中で唯一あの青年を理解している、理解しようとしている老医師の言葉は、いらだつクリスの心を和らげる効果があったらしい。幾分刺の消えた口調で、青年は師である医師に問う。
 老医師は柔和な顔のまま、言葉を継いだ。
「変わらんからじゃよ。あやつはわしが生まれる前に、初めてシップを訪れた。時折戻ってきては顔を見せていたが、その頃から外見がまったく変わっておらん」
 師と仰ぐ医師が生まれる前。では、この老医師は、あの男の生を目の当たりにしてきたのではないのか。
「…先生、あの…」
「誰しも一度は恐怖してしまうのかもしれんな。死を恐れるように、限りの無い生もまた畏怖の対象じゃ。あやつがどれほど気の良い心優しい男であっても」
「………」
 老医師の言葉は、何かを心の深い場所へ伝えてくるように感じられた。
 しかし、常に明確な解答を求める彼には、今の自分の心の内がひどくわずらわしく感じられるのだが。
「…さて、戻るかの?」
 声に出しては応えず、クリスは砂漠に背を向けた。先を行く老医師の後をゆっくりと追う。
 この老人もまた、彼に畏怖したのだろうか。
 にわかには信じられなかったが、何故かクリスはそう感じていた。


 老医師とクリスが街に滞在したのは、五日間だけだった。二人はまだシップに仕事が山積みで、ウルフウッドの容態が安定次第戻らねばならなかったためである。
「先生、クリスさん、本当にありがとうございました!」
 ウルフウッドの部屋で二人が去る旨を告げると、彼を看病していたミリィが深々と頭を下げた。
 メリルと交代して睡眠をとってはいるが、彼女は片時もこの部屋を離れようとはしないのだ。
「じきその男も目覚めるはずじゃ。じゃがおまえさんも無理をしすぎんようにな。看病する側が倒れたら、本末転倒になるからの」
「はい!ありがとうございます。でも大丈夫です。私こう見えても丈夫なんですよ」
「頼もしいのぉ」
 元気な笑顔。まさに天真爛漫と言うべきだろうか。見ている者まで元気づけられるようである。
 そんなミリィに見送られ、老医師とクリスは建物の外に出た。
 そこでは、ヴァッシュとメリルが二人を待っていた。
「本当に、お礼の言葉もありませんわ。お二人が来て下さらなければ、ウルフウッドさんは……。ありがとうございました。道中、お気をつけて」
「お嬢さんが一番大変じゃったろう。よく頑張ったの。あの男が助かったのは、ここにおる全員のおかげじゃ。誰一人欠けても救うことはできなんだろう」
「…そうですわね」
 メリルが微笑む。老医師は頷いてヴァッシュを見た。
「良かったのう、ヴァッシュ」
「…先生…」
「身近な者を助けられれば……もう大丈夫じゃな」
「……ありがとうございました、先生」
 いくら感謝しても足りない。その万感の思いを込めて、ヴァッシュは老医師に礼を言った。
 そして、ヴァッシュはクリスを見る。
「ありがとう、クリス」
 だが、彼の礼には答えず、クリスは逆にその名を呼んだ。
「…ヴァッシュさん」
「何だい?」
「また、シップへ来て下さい。僕はまだ貴方に聞きたいことがたくさんあるんです」
 ヴァッシュは少し驚いた表情を見せ、やがてやわらかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。全てが片づいたら、必ず行くよ。待っていてくれ」
「…お待ちしています、それでは」
「元気での」
「先生も。クリスも元気で」
「本当にありがとうございました。お気をつけて」
 二人に見送られ、老医師とクリスはトラックで街を後にした。


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