目を開いた時、まず彼の視界に広がったのは、すすけた色合いの天井だった。
 どこの街にもありそうな家のそれである。
 ──なんやえらい見慣れた景色やなぁ……。
 身体の感覚もあり、痛みすら感じる気がするのだ。案外死ぬということは、生きていることと大差ないのかもしれない。
 自分がベッドに横になっていることを理解してから、何気なく視線を泳がせた彼は、ようやくベッド脇にうつ伏せになっている人物に気がついた。
「…ハニー?」
 微かな寝息が耳に届く。半身を起こして、そっと彼女の髪に触れてみた。
 ──ああ、そうか。
 いくら話を聞いていても、緑の中の世界は想像できない。今まで生きてきた大地にあったものと、唯一の心残りであった娘、それが自分にとって最も大切で、身近なものだったのだ。
「…これがワイの楽園っちゅうわけか…」
 生きていくにはあまりにつらく厳しい世界だった。けれど、そこで得たものもまたあったのだ。
「ん…」
 身じろぎをして、ミリィが目を開けた。慌てて身を起こし、枕元にあるはずの顔を見やる。
 そんな彼女に、ウルフウッドはそっと笑みを返した。
「おはようさん」
「……牧師…さん…」
「なんや、鳩が豆鉄砲食らった顔して」
「牧師さん!!」
 ミリィがウルフウッドに抱きついた。
 自分の胸の中で激しく泣きじゃくる娘の背に手を回し、ウルフウッドは目を閉じる。
「…ワイはホンマに、ハニーの…ミリィのことが好きやったんやなぁ。ワイみたいな奴にも、楽園を垣間見せてくれるんか…」
「え…?」
 その声を聞きとがめ、ミリィが思わず顔を上げた。
 そこへ、軽いノックの音が響く。
「ミリィ、そろそろ交代しましょうか?」
 言いつつ、開かれた扉から顔を覗かせたメリルの瞳が見開かれた。
 一瞬の間を置いて。
「ヴァ、ヴァッシュさんっ!!」
 扉を開け放ったまま、メリルの姿が消えた。廊下を駆ける足音が響く。
 程なくして、複数の足音が近づいてきた。と思う間もなく、見慣れた金髪の男が少しだけ開いていたドアを開け放つ。
「……ウルフウッド……」
「トンガリと小っこい姉ちゃんにまで会わせてくれるんかいな。ホンマ、神様もお人好しやなぁ」
「…ウルフウッドさん?」
 メリルが訝しげに彼の名を呼ぶ。
 どうやら意志の齟齬があるらしい、ということをヴァッシュとメリルがおぼろげに理解するまでの間。部屋には一種、形容しがたい沈黙が降りていた。
 そして、ヴァッシュがようやく口を開く。感動の対面には程遠い内容であったのだが。
「…ウルフウッド。ひょっとして君、自分が死んだって思ってる?」
「何あたりまえのこと言うとんねん。おどれは最後までボケかます気か」
「あの…牧師さん?」
 事態が飲み込めないらしいミリィも、一時的に泣き止んでウルフウッドを見上げている。
 メリルが少しばかり俯いて、足音も高く、二人に歩み寄った。
 ウルフウッドの頬で軽い乾いた音が響く。
「せ、先輩!?」
 驚くミリィを目線で制し、メリルは仁王立ちになると、ベッドの上で目を丸くしているウルフウッドを見下ろした。
「いつまで寝ボケているんですの!!あなたは生きていますのよ!」
「…なんやて?」
「そうですよぅ。牧師さん。…だから、よかったって……」
 ミリィが両手で顔を覆う。
 ウルフウッドはメリルを見上げ、ミリィを見下ろし、そして戸口のヴァッシュを見やった。
「ちゅうことは、全員本物か?」
「当然ですわ!」
「…せやけど、ワイはあん時…」
「ヴァッシュさんが応急手当をして、お医者様を呼んで下さったんです。間一髪でしたけれど、あなたは助かりましたのよ」
 ウルフウッドは両手を見下ろした。腹部に手をやると、包帯が巻かれているのがわかる。だが、目覚めた時はそこまで気が回らなかった。あの状態で、生き残ることなどありえないと確信していたのだ。
「ホンマに、生きとるんか…?」
 夢なのだと思った。死ぬ間際に見られる最後の夢なのだと。
 あの時、死を確信してから、生きたいと痛切に願った。
 人生の最期に出会えた三人の人間。
 彼には決して選べないであろう、理想の生き方をする男の存在は、見ているだけで自分が嫌になるほどだったが、それでも。
 自分を救い、癒してくれた心優しい娘と。
 もしも生まれ変われるなら、争いも憎しみも無い緑あふれる世界で、彼らと共に生きたいと……。
「あの傷で、なんで助かったんや?」
 致命傷のはずだった。助からないと悟ったからこそ、生涯に最初で最後の懺悔をした。
 ぬか喜びをさせるのがいやで、待っていろと言ったミリィのもとへは帰れなかったというのに。
 …いや、違う。本当は……。
「シップの先生に来てもらったんだ。あのままだったら助からなかったと思う。シップのロストテクノロジーと、先生の確かな腕と、先生を連れてきてくれた助手のクリスと、そして……君が帰るのを信じて懸命に手を尽くしたミリィやメリルのおかげだよ。この場に誰一人欠けても、君を助けられなかったと思う」
 決まっていたであろう未来を覆したのは、ここに集まった人々の、たったひとつの願いと祈りなのだ。
 いつしかメリルも目の端に涙を浮かべていた。
「そう、か」
「助かって、良かった」
 ウルフウッドがヴァッシュを見やる。
 ヴァッシュは彼を安心させるように、微笑んだ。
「君が助かって良かったよ。そう思ってるのは僕だけじゃない。……わかるだろう?」
「…ああ…」
 ウルフウッドは未だ泣いているミリィに手を伸ばした。静かに彼女を抱き寄せる。
「牧師さん…」
「…すまんかった。心配かけて、堪忍な」
 ウルフウッドは腕の中のミリィの頬に口づけた。そして。
「ただいま、ミリィ」
 顔を伏せていたミリィが、一瞬、硬直した。
 ゆっくりと、ゆっくりと彼女が静かに顔を上げる。
 泣きはらした赤い目に涙をいっぱいに溜めながら、それでも。ミリィは笑いかけた。
 その拍子に、涙が頬に一筋流れ落ちたのだが、ミリィは笑みを浮かべたまま、はっきりと応える。
「お帰りなさい、ニコラスさん」
 それが、彼女の精一杯だった。大切な人の胸の中で、ミリィは声を上げて泣き出す。
 けれど、誰もそれを止める者はいなかった。
 ウルフウッドは彼女を抱きしめたまま。優しいそのぬくもりを感じていた……。


 二人を残し、ヴァッシュとメリルは部屋を後にした。
 彼が目覚めれば、体力の回復を待って養生させれば良い。名医のお墨付きである。これで、心配はない。
 居間へと移動すると、ヴァッシュは椅子に座り込んだ。まるで体中から力が抜けたような動作である。
 そして、ヴァッシュは膝の上に両肘をのせた。両手の平を組み、その上に顔を伏せる。
「もう、大丈夫だね…」
「ええ」
 独り言のような言葉だったが、メリルは短くそれに応じた。
 そのせいだろうか、ヴァッシュは短く言葉を継ぐ。
「あの時、あいつが…死んだと、思ったんだ…」
 小さくかすれた声に、メリルは再び応える。
「生きていますわ。もう、心配いりませんのよ」
 ヴァッシュは何も言わなかった。
 けれど、その肩が小刻みに震えていた。顔が伏せられているのでその表情は伺えないのだが。
 メリルはヴァッシュに歩み寄った。
 一瞬だけ、ためらったけれど。
 彼女は、座っているヴァッシュの頭を抱き寄せた。
 ──ああ、やっぱり。
 肩が震えている。微かに声が洩れている。手を伸ばした時に、少しだけ触れた頬に流れていた涙。
「どうして、声を殺しているんですの?」
 ヴァッシュは、何も言わない。何も言わずに、声を殺したまま、泣いている。
「ここからでしたら、部屋の中には聞こえませんわよ」
 染み入るようなメリルの声に、ようやくヴァッシュが口を開いた。
「…困るんじゃ、ない?」
 主語は抜けていたが、誰を指すのかは一目瞭然だ。
 思わずメリルは苦笑する。彼女にしてみれば、何を今更、と思うのだが。
 けれど、真剣なヴァッシュの声に、メリルもまた思ったことを口にした。
「構いませんわよ。悲しい時、嬉しい時。涙が出るのは当たり前だと思いますもの。素直に泣ける方って羨ましいですわ。…あなたは少し素直すぎるかもしれませんけれど」
「…ひどいなぁ」
「正直な気持ちですわ。ですから……」
「ありがとう、メリル」
 そう口にしながらも、ヴァッシュはなかなか声を上げなかったのだけれど。
 それでも。自然とメリルに寄り掛かって涙を流すヴァッシュの様子から、彼がどれほどウルフウッドの生還を喜んでいるのかが伝わってくる。
 安堵の涙に、悲しい気持ちが込められることはない。
 ヴァッシュがこれまでに流してきた涙は、悲しみに満ちたものばかりだった。
 そんな涙しか、見られなかったから。
「よかったですわね、ヴァッシュさん」
 ウルフウッドが無事助かったことに、心から安堵した。
 そして。
 ヴァッシュにこの言葉を口に出来ることが、メリルには嬉しかった。


 明けて、翌朝。
 半分以下になった水差しの水を足すべく厨房へ向かったミリィは、ふと気になってヴァッシュの部屋をノックした。
 朝の早い彼なら、既に目覚めている時間である。
「ヴァッシュさん?」
 返事はない。念の為もう一度ノックをしてから、ミリィは扉を開く。
 中は、もぬけの空だった。
 ミリィが慌ててメリルの部屋に向かう。
「先輩!」
 ノックもせずに扉を開けたが、中のメリルは既に身支度を整えていた。
 足元には彼女の愛用しているトランクと、鞄型タイプライターが置いてある。メリル自身、あとはコートを身につけるだけとなっていた。
「あら、ミリィ。もう起きましたの?」
「え、と…はい。じゃなくて!ヴァッシュさんが、行っちゃったんです!」
「わかってますわ」
 さらりと返事をすると、メリルはコートを身にまとった。
「追いかけなくてはね。仕事ですもの」
「先輩……」
 どう反応すれば良いのかわからないらしい後輩に、メリルは肩を竦めてみせた。
「なんとなく、予感がしていましたわ。これ以上他の人間を巻き込まないために、一人で行ってしまうんじゃないかって。でも、放っておけるはずありませんわよね。あの人を一人で行かせたら、この先どれだけ請求書の山がくるかわかったものじゃないでしょう?」
 メリルが微笑んだ。
 表向きは仕事のことしか口にしていないのだが、強い意志に裏打ちされた言葉に、迷いはない。
 ミリィは空いている手でガッツポーズを作った。
「先輩、ファイトです!」
「もちろんですわ。出かける前に、ウルフウッドさんにご挨拶してきますわね」
「はい!じゃ私、お水換えてきます」
 ぱたぱた厨房へと駆けてゆく後輩を見送り、メリルはウルフウッドの部屋へと向かった。
 ノックを1回。
 中の声が応じると、メリルはドアを開ける。
 その姿を見たウルフウッドは、開口一番にこう言った。
「行きよったんか」
「これから追いかけますわ」
「…本気か?」
「ええ」
 ウルフウッドの瞳が険しさを帯びた。
「追いかけたところで何が出来るわけでもない。ちゃうか?」
「確かにそうかもしれません。でも、あの人を一人で行かせたくありませんわ」
「それがあの男自身の危険につながってもか?」
 メリルは即答しなかった。だが、ウルフウッドの鋭い眼光から目をそらすことなく、彼女は続ける。
「…ええ。何もわからないままでいたくないんですの。ここで留まったら、あの人が一人で行ってしまっても、もう二度と止めることが出来ませんわ」
「ほうか」
 意外なことに、ウルフウッドはあっさりと引き下がった。
「まぁ、気張ってみるんやな」
「そうさせていただきます。……ああ、そうですわ。あなたに言い忘れた事がありましたの」
「なんや?」
 まだ少し顔色が悪いが、死の影は既に消えている。そんな様子に安心しつつ、メリルは彼に近づいた。
 思い切り、その頬を叩く。
「ミリィを泣かせる男なんて、許せませんわ」
「…せやな」
「私、今まであの娘の泣き顔を見たことがありませんでした。……強い娘ですのよ」
 いつも笑顔で周囲の人間を元気づけてくれる、優しくて強い女性。
 自分にはないものを持つ後輩に、メリルは幾度も助けられたのだ。
 大切な、妹のようなミリィ。
「あなたのような人のどこがいいのか、理解に苦しみますけれど」
 彼女の幸せを願うと、果たしてこれで良いのかと問いかけたくなるのだが…。
 メリルは一呼吸おいて、続けた。
「ミリィをお願いしますわね」
 ウルフウッドの表情が動いた。わずかに驚いた顔を浮かべたが、彼は表情を引き締めて、頷く。
「わかった」
「今度あの娘を泣かせたら、平手打ちじゃすみませんわよ」
「もう、泣かせへん。…死ぬつもりはないからな」
 青みがかった灰色の瞳に真摯な光が宿る。
 メリルは少しだけ安堵した。信じられる、そう感じられたゆえに。
「ヴァッシュはデミドリッヒに向かったはずや」
「!」
「こっからやったら途中の街で追いつけるやろ。急ぎや」
「ありがとうございます」
 メリルは軽く頭を下げ、ウルフウッドに背を向けた。
 足早に部屋を出ようとした、その時。
「メリル」
 思わずメリルの足が止まった。
 この男との長いようで短い付き合いの中、名前を呼ばれたのは初めてだったはずだ。
 振り向いたメリルに、ウルフウッドはまっすぐな瞳を向けていた。
「あいつのこと、頼んだで」
 この男と真剣に向き合ったのも、これが初めてのような気がする。
「ええ。わかりましたわ。では、行って参りますわね」
 自然に言葉が口を突いて出た。
 ドアを閉めながら先程の言葉を反芻し、メリルは自分に驚いていた。行ってくる、などと言う言葉を最後に使ったのはいつのことだったろう。一人暮らしを始めてから、口にすることなど無くなっていた。
 いつの間にか、この男にもある程度心を許していたらしい。
「あ、せんぱーい!」
 佇むメリルに、元気な声がかけられた。
 ミリィは水差しを載せたトレイを手に、彼女に近づく。
「気をつけて下さいね。忘れ物、ありませんか?」
「ありませんわよ。大丈夫。ミリィこそ、一人で大変だと思うけれど、しっかりね」
「大丈夫です!まっかせてください!!」
 元気な彼女を見ていると、大丈夫だと思えてくる。そう、勇気を分けてくれる大切な娘なのだ。
「それじゃ、行って参りますわね」
「はい。頑張って下さい、先輩!」
 メリルは小さく手を振って、駆け出した。荷物を手に、外に繋いでいるトマのもとへと向かう。
 急げば、途中の街で追いつくはずだ。
 追いついた後のことは、まだ考えていない。
 とにかく彼を追うこと。すべてはそれからなのだから。


 メリルを乗せたトマの足音が聞こえなくなってから、どれほど時間が過ぎただろうか。
 ウルフウッドはベッドの上で上半身を起こしたまま、替えの包帯を用意しているミリィに話しかけた。
「なぁ、ハニー」
「はい?」
 振り向く彼女に、ウルフウッドは真剣な眼差しを向けている。
 ミリィは表情を改めて彼に近づいた。手を伸ばせば届く距離まで歩み寄り、もう一度尋ねる。
「なんですか?」
 ウルフウッドが無言でミリィの頬に右手を伸ばす。やわらかなその肌に触れると、ぬくもりが伝わってきた。
「…泣いたんやろ?」
 わずかに、彼女が震えた。触れている頬から、それがウルフウッドに伝わってくる。
 彼の瞳を見つめて、ミリィはそっと瞼を伏せる。
 けれど、その口からは正直な気持ちが紡ぎだされた。
「少しだけ、です」
「ワイはミリィを悲しませてばっかりやな」
「いいえ。そんなこと、ないですよ」
 自嘲気味な響きを感じ取ったのか、ミリィは優しく彼の言葉を否定した。
 ウルフウッドが更に言葉を続ける。
「あん時な……あんたの泣き顔を、見とうなかったんや」
 ミリィは澄んだ瞳を向けたまま、静かに彼の告白に耳を傾けている。
「致命傷やっちゅうのはわかっとったからな、ぬか喜びさせるだけになるんも余計に酷や……いや、ちゃうわ」
 連ねる言葉が自分の本心から離れていくのを感じ、ウルフウッドは一旦言葉を切った。
 綺麗事を並べる為に話しているわけではないのだ。この期に及んで彼女の身だけを案じていた振りをしたくはなかった。
 メリルと交わした言葉を思い出す。泣かせるつもりはない、それは本心だった。
 彼女を悲しませたくないという思いがある一方で、ウルフウッドはあの時の真実を告げずにはいられなかった。
 約束を反古にしたことは数え切れない。
 けれど、この少女との約束は守りたいと思った。便宜上のものであっても。
 ──それを壊したのも、やはり彼自身だった。
 本当に話すべき言葉は……。
「ワイは、自分がこれ以上罪悪感を抱え込みとうなかったんや」
 あの場所で待っていてくれと言ったのは自分自身だった。だが、最期を意識したあの時ですら、ウルフウッドには自分のことしか頭に無かった。懺悔という言葉それ自体に救いを求めて、最後の最後で逃げたのだ。すべて、自分のエゴでしかない。
 突き放すような言葉を投げかけられたにもかかわらず、ミリィは表情を変えなかった。怒りもせず、泣きもせず、ただウルフウッドを見つめている。
 泣くかもしれない、と思った。
 だが。
 手の甲にぬくもりを感じると同時に、優しい声が彼の耳朶を打った。
「あなたは人の心の痛みがわかる人だから…悲しむ姿が見たくなかったんじゃないんですか?」
 言いつつ、ミリィはかすかな微笑みを浮かべていた。
 そして。彼女が、頬に触れるウルフウッドの手に自分のそれを重ねたのだと、遅まきながら気づく。
「罪の意識を感じるのは、優しい心を持っているからだと思います。つらいと思うのは、痛みを知っているからだと思うんです。でも……」
 ミリィがわずかに顔を伏せた。身体の震えが伝わり、重ねられた手に力がこめられる。手のひらの中にある存在を確認するように。
「会いたかったです。会いに来て…ほしかったです。残された時間が少なくても、声を聞くだけでも、顔を見るだけでも、それでも、あなたに会いたかった……」
「……ミリィ……」
 彼女のこんな声を聞くのは初めてだった。いつも元気な姿を見せ、明るい声で喋る娘なのに。
 ウルフウッドの手に、熱いものが触れた。
 右手と同様に、彼は空いている手をミリィへと伸ばす。そして、両手で彼女を引き寄せた。
 ミリィは膝をついて、ウルフウッドの胸の中に顔をうずめる。
「…また、泣かしてもうたな」
 ミリィの頭をなでながらこう言ったウルフウッドの顔には、寂しげな表情が浮かんでいる。
 だが、今は愛おしさを感じる相手を傷つける言葉しか口にすることが出来ない。
 ──できることなら、彼女のもとへ戻りたいと願っていたはずなのに。
「…ニコラスさん」
 しばらく泣いていたミリィが、ウルフウッドの名を呼んだ。
 小声ではあったが、つい先程まで泣いていたとは思えないしっかりした声音で。
「なんや?」
「もう一度、約束、してください。もう、どこにも行かないって」
「…………」
 果たせなかった約束を。
「──ええんか?」
 腕の中で俯いたままの娘に、ウルフウッドが訊き返す。その声には、半ば驚きが含まれていた。
 愛想を尽かされても当然だというのに。
 ミリィが顔を上げた。瞳がまだ潤んでいるが、もうその頬に涙は見えない。
 そして、にっこりと笑いかけてきたのだ。
「だって、帰ってきてくれたじゃないですか」
「せやけど、さっき…」
「あのままお別れしてたら、っていう意味です」
 ──ああ、この娘にはかなわんわ。
 ウルフウッドの口から苦笑が洩れた。
「…ワイとおったら、苦労するで」
「一緒なら、幸せです」
「ほうか」
 ウルフウッドはひとつ深呼吸をした。
 そして、腕の中の彼女へ真摯な眼差しを向ける。
「ミリィ、この先、ワイと一緒に生きてくれへんか」
 自分を見上げていた娘が、三度、またたきをした。
 頬を赤く染めながら、ミリィが全開の笑みを返す。
「はい、ニコラスさん」
 その返事を聞いた直後、ふ、とウルフウッドは彼女の肩に頭を乗せた。
 張り詰めていたものがなくなったような、浮遊感に似た心地良さを感じながら、ウルフウッドは目を閉じる。
 両手に、愛しい相手を抱きしめたまま。
「……おおきにな」

 自分にその資格があるのかと問われれば、否と答えるだろう。
 過去は決して消えることが無い。犯した罪は誰が見ていなくとも、自分自身の記憶に灼きついている。
 それでも、救いはあるのだと。そう信じることは、罪を重ねることにはならないと。
 この世に一人だけでも、自分を許してくれる存在がいるのであれば……。

「大丈夫ですよ」
 あまりにタイミングのいい台詞に、ウルフウッドは思わず顔を上げてミリィを見た。
「幸せになりましょうね、ニコラスさん」
「せやな、ミリィ。…これからも、一緒におってくれ」
「はい。ずっと一緒です。ね、あなた」
 優しい笑みで自分を癒してくれる、彼女。

 ──この娘がおったら、大丈夫や。

 そう感じながら、ウルフウッドは強くミリィを抱きしめた。
 決して、離しはしない。そう心に秘めながら。

──fin

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