【 2 】


 最初に覚醒したのは聴覚だった。
 やや高めの位置に付けられた小さな窓から、風に乗って笑い声が運ばれてくる。それは光の中にとけ込んでいるのか、まるで薄い膜を通したように心地よい距離から流れてくるものだった。
 子供と大人と……いったい誰なんやろ?
 次に覚醒したのは触覚だった。
 手を意識的に動かすと、清潔なベッドのふんわりとした感触を確認することができる。堅すぎないスプリングが、身体の疲労感を吸い込み、掛けられた毛布はいい具合に体温を調節していた。
 その次は嗅覚だった。
 どこから流れてくるのか、コンソメスープの香りと、焼きたてのパンの香ばしい匂いが、幸せそうなハーモニーを奏でている。きっと台所には真っ白なエプロンをした女性がいて、家族のために食事の準備をしているのだろう。そんな光景が自然と浮かんでくるようだ。
 ああ、そういや、腹へったかも……。
 ウルフウッドは、ゆっくりと瞼を開いた。
「……あ……………」
 天井に取り付けられた大きな扇風機が、小さな音を立てながらくるくると回っている。高めの位置に取り付けられた窓からは、明るい太陽の光が射し込み、部屋の中にくっきりとした影を作り出していた。質素な作りの部屋である。
(今、何時や?)
 まだ覚醒しない頭に浮かんだのは、そんな当たり前のことだった。身体がだるい。久しぶりに浴びるほど飲んだ酒のせいだろう。けれど不快感はなかった。
 気を抜くと再び微睡みの中に陥りそうな意識を、どうにか頭を動かすという行為に集中させ、右の方へ視線をずらす。そこには今自分が寝ているベッドと同じものがもうひとつ。
「…………」
 となりのベッドはカラだった。代わりに、抜け殻のような真っ赤なコートとアンダーウェアが、ベッドの脇の洋服かけに掛かっている。
 なんだかおかしな光景だった。見慣れたはずのそれらは、主人から離れて所在をなくしているというのに、妙にしっくりとハンガーに掛けられているのだ。窓から入ってくるそよ風に、時折裾を揺らされながら、なんだか心地よさそうにも見えた。
「……トンガリ?」
 呼びかけたわけではない。自分へ確認するために声を出したのだ。そしてひとつの疑問が浮かんだ。
 なんでベッドがふたつあるんや。ツインの部屋なんてとった憶えないで……?
 薄ぼんやりとした頭の中の昨日という引き出しを、緩慢な意識が探っている。
「あ、せや」
 そこで彼はようやく目が覚めた。ベッドの上で上半身を起こし、昨日の経緯を頭の中に浮かべてみる。
 ここはホテルではない。昨日執り行った葬儀の後、故人の息子だという男が、彼の家に泊めてくれたのだ。だからここは個人宅のゲストルームであり、彼とつれのヴァッシュは、当然のように同じ部屋へ案内されたのだった。ちなみにホテルでは、常にシングルルームをふたつ取るのが通例となっている。
 思い起こせばなんということもない。
 ウルフウッドは大きく伸びをしてから、ベッドから降りた。
「なんや、久々にぎょうさん眠ったわぁ……」
 頭をがさつにボリボリと掻き、別の手で衣服に手を伸ばす。
 窓からは気持ちのいい風と、先程聞いた笑い声が再び流れ込んできた。今度はもっとはっきり聞こえる。どうやらその笑い声の主にヴァッシュも混じっているようだ。
「ふあ〜〜〜〜〜〜あ」
 気怠さを振り払いながら、彼は身支度を整え、ベッドルームを後にする。
 滅多にない、優雅な目覚めだった。


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