辻斬り御用


   4

 アルディア橋が微かな月明かりを浴び、暗く彩られたその輪郭を見せた。
 そろそろ日付が変わろうとするこの時刻、夜道を照らすのは、夜空に薄く輝く三日月の淡い光のみである。その月の光も、時折横切る雲に遮られるせいか、やや心許ない。
 暗がりに沈んだ夜道を好んで通る者は少ないだろう。ましてやここは辻斬りの現場となったアルディア橋だ。
 川を流れるせせらぎの音が、周囲の静けさを際立たせる。
 時折吹く風すらも、余計にもの寂しさを感じさせていた。
 誰もが通行を避けるであろうこの時間に、地面を踏みしめる音が、かすかに響く。
 暗がりでよくわからないが、長い髪を無造作に後ろに流した着流し姿の男である。
 アルディアに住む者ならば、事件を知らぬはずはない。
 しかし、飄然とした風体の男は、散歩のついでに橋を通りかかったといった様子で、緊張のかけらも感じられない。
 そんな男の腰には、鈍く光るものがあった。刀の鞘だ。
 …どうやら、よほど腕に覚えがあるらしい。
 男が通り過ぎた場所で、不意に一陣の風が吹いた。
 その風に誘われたかのように、一つの影が現れる。
 だが、男の歩みは止まらない。背後で起こった風など意にも介していない様子だ。
 人の姿をとった影が、一歩を踏み出した。


 ――来やがったな。
 ぴんと張りつめた、一瞬の空気。
 僅かな間とはいえ、研ぎ澄まされた感覚が、その殺気を逃すはずはない。
 しかし、彼――トッシュの歩みは止まらなかった。何も感じていないかのように、歩調を変えることなく進んで行く。
 犯人が現れたのだから、囮作戦は八割方成功したといえるだろう。後はこの人間を捕らえればいい。
 アルディア橋のふもとでは、インディゴス寄りにシュウとアークが、プロディアス寄りにエルクとポコが待機しており、合図を送れば駆けつける手筈になっていた。この位置ならばどちらかというとインディゴスが近いだろうか。
 凶悪な殺人犯との一対一という状況はかなり危険なものだが、自ら囮をかって出たトッシュにとっては、むしろ絶好の機会だった。
 何せ思う存分腕を振るうことができるのだ。これを逃す手はない。できるなら、一人で片づけたいところだ。
 左手を鞘に添えたまま、歩調を変えることなくトッシュは歩き続けている。
 動きがあれば、すぐに抜くつもりだった。
 しかし、これはあくまでも『仕事』である。問答無用で斬りかかられたならともかく、今は仲間を呼ぶことが先決だった。
 好戦的な考えを抱きつつも、仲間へ合図を送る算段をしながら、トッシュはプロディアスへ向かって歩を進める。
 ――不意に、『音』が消えた。
 トッシュの歩みが止まる。
 それまで聞こえていた川のせせらぎ、風の音、虫の声。周囲に満ちていたささやかな物音はおろか、風をはらむ着物の衣擦れの音までもが消え失せたのである。
 失われた音に替わり、あらわになったのは肌を刺すほどの殺気だった。
 音が消えたのは聴覚を絶つ術――サイレントによるものだろう。どうやら背後の人物には術の心得もあるらしい。
 この術をかけられると一切の魔法が使えなくなる。ゴーゲンやサニアといった魔法による技を武器とする者にとっては、命取りになりかねない危険な術だ。
 そして、音が封じられるということは、声を上げられないという意味を持つ。しかも、その範囲を目測することができないのだ。並の人間ならば、遮断された空間に対し、より一層の恐怖を感じるだろう。
 だが、剣士のトッシュには関係がなかった。音で感覚をはかれなくとも、気配を読むことは出来る。
 そして、この結界の存在は、彼に一人で戦う大義名分を与えたのである。
 トッシュはゆっくりと背後を振り返った。
 そこに佇んでいたのは、紛れもなく、殺気の主。
 先程振り返った瞬間に、体勢は整えてある。あとは、抜くだけだった。
 トッシュは上唇をなめる。
 彼の浮かべた笑みを挑発と取ったのか、人影もまた、不気味な笑みを浮かべて間合いを詰めた。
 ――お手並み拝見と行くか。
 人影が軽く身体を沈め、跳躍する。
 トッシュは鯉口を切った。
 抜いた刃は人影の服をわずかに裂いた。しかし、その身体を捕らえる事は出来ない。
 トッシュの一撃を紙一重でかわした影が、大地を踏みしめた足を軸に、回し蹴りを放つ。
 重心をずらしてそれを避け、トッシュは刃を再び閃めかせる。
 刹那。
 彼の視界の隅を、小さなものが通り抜けた。
 ──子供!?
 この場にあるはずのない存在に気を取られ、トッシュの反応がわずかに鈍る。
 隙を逃さず、人影が拳を振り下ろした。
 その手首から、袖口に仕込まれていた針状の武器が飛び出す。
 小さな刃は、淡い月明かりを反射しながら鋭く空気を引き裂いた。


 黒雲が月を覆った。
 水面を照らす光が途切れ、辺りは夜闇に包まれる。
 わずかに聞こえる川のせせらぎに耳をそばだてながら、ポコはそっと橋の向こうを伺った。
 怪しい物音は聞こえない。
 トッシュがこちらを出て、かれこれ一時間になる。そろそろ戻ってきても良い頃合いだった。
 ポコたちは、プロディアス側とインディゴス側の二手に別れて待機していた。
 アルディア橋からインディゴスまでは十五分。
 囮であるトッシュは、まずプロディアス側からアルディア橋を渡り、インディゴス側へと向かう。道中の往復に必要な時間を合わせて五十分待機、その後プロディアス側へ戻ってくるのだ。
 夜更けと明け方の二往復で、網を張ることにした。
 そして、一度目の往復を始めたのが一時間前。
 行きは何事もなかったらしいが、帰りはどうだろうか。早ければ、この帰り道で犯人が出てくる可能性もあるのだ。
 ポコは隣で同じように息を潜めているエルクの様子を伺った。
 普段は騒々しい程に明るく元気な少年だが、今の彼は、沈黙を守ったまま、橋の向こうを見据えている。
 自身の仕事に誇りを持ち、常に全力で事件にぶつかるエルク。どれほど困難な仕事でも、引き受けたからには必ずやり遂げる。
 これまでにも、ポコは幾度かエルクの『仕事』に付き合う機会があったのだが、そのたびに、彼がハンターであることを思い知らされていた。
 エルクの仕事に対するスタンスを知っているからこそ、この時期に、アークは敢えて彼に三日の猶予を与えたのだろう。…そう、ポコは思う。
 待つ時間というものは、普段のそれよりもことさら長く感じられるものだ。
 ゆっくりと、予定の時間が過ぎて行く。
「…遅いね、トッシュ」
 気のせいか、傍らのエルクの表情に苛立ちが感じられ、ポコはこっそりと声を出した。
 もちろん、呟きにいらえはない。
 返事を期待していたわけではなかったが、宙に浮いた言葉を持て余し、結局ポコは気まずく口を閉ざす。
 そして、更に長く感じられた数瞬の後。
 エルクの身体に緊張が走った。
 同時に、その視線がポコへ向けられる。
 物音は聞こえていない。しかし、かすかに魔力の波を感じた。
 近くで何らかの術が使用されたのだ。しかも、この気配は、水……ポコと同じ属性の術だろう。
 一瞬硬直したポコは、顔を上げてエルクを見た。
 二人の視線が交錯する。
 ポコの不安げな瞳の中に驚きの色を見てとるや、エルクは地を蹴り、駆け出していた。



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