杉原土地は大阪から9分の園田にあります。
小社は大阪のベッドタウンとして発達した園田で創業56年の賃貸を行う不動産会社です。
昭和33年前社長である杉原とくが園田の地で創業しました。当時では珍しいお部屋にタイルの流しが設備された台所付きのアパートを建設致しました。これは創業当時より入居者様に便利で清潔なアパートを提供することを社是した結果です。
時代が進むにつれてテレビアンテナ・水洗便所・お風呂・二重ロック・エアコン・シャワー・BSアンテナ・ケーブルテレビ・シャンプードレッサー・防犯カメラ・自動販売機・無料インターネット・宅配ボックス・ベランダ・ベランダ・ダウンライトと間接照明 ・無料ワイファイなどの設備を付け足していきました。またロフト付きにも改装をして段階的ですがそのロフトもご入居者様にとってより良いものになるように進化させていきました。 お部屋はいつも設備を更新してフローリング・クロス貼りで新装しています。
また住みやすいように防音にも力を入れています。 もちろん安全は大切ですので防犯については創業当初より考えております。
この間の昭和62年により経営を合理化するため法人化して杉原土地有限会社ができました。
今後ともがんばりますのでよろしくご指導・ご鞭撻をお願い致します。
正式法人名 杉原土地有限会社
代表者 取締役 杉原正治
(弊社には、取締役がひとりしかいませんので上記の者が、代表です。)
当サイト責任者
所在地 〒661-0971
兵庫県尼崎市瓦宮2-18-15
お問い合わせ先 メール
電話06-6491-6339
フリーダイヤル:0120−621079
(大阪・兵庫から通じます。携帯電話も可能)
fax06-6491-6338
返信メールです
休日 年中無休
(但し宅地建物取引主任者が不在の場合がありますのでご連絡下さい。)
園田駅前店 阪急園田駅下車南出口西に線路つたいに50m
園田駅前支店は、弊社物件のみを、賃貸しています。
杉原正治
杉原土地有限会社は
大阪梅田から電車と徒歩でゆっくり歩いて23分の
一級河川藻川の河畔にアパートを持っています。
創業は昭和33年 創業者は私の母杉原とくです。
私は 母が36歳の時 昭和27年に生まれました。
田植えも終わり 畑のイチゴが
最盛期になった 6月の25日に生まれました。
私が生まれた村は
当時日本のどこにでもあった 農村というか
寒村というか
貧しい村でした。
私の家族は
その村で 農家を営んでいました。
特にその村で 貧しいわけでもなく
もちろんお金持ちでもありませんでした。
父や母 歳の離れた兄は
朝は朝星 夜は夜星で 働いていました。
父や母兄は働き者ですが
村の人たちの ほとんどの人は
そんな風に働いていましたから
特に 私の家族だけが
働き者というわけではありません。
わが家の家計は
自給自足状態ですので
食糧以外は 質素倹約の極みです。
もっと簡単に言えば
「その日暮らしです」
でもそのぎりぎりの生活が
父の病気で 大きな転機を迎えます。
私が5歳の時です。
父が病気になって
農業に従事できる人間が
少なくなると
農業では 生計を立てられなくなりました。
父の世話もして
家事もこなして
家計を支えなければならない母は
事業を興すことをしました。
大阪から 近く 駅からも近いという 立地もあって
貸し家業にしました。
父が持っていた畑が
園田の駅から徒歩で5分の
便利な所にあったので
そこに
小さな貸し家を建てることにしたのです。
その畑は
藻川の河畔にあって 環境もよかったのです。
母は 経費節約のため 家の近くにあった
使われなくなった納屋を 移築することにしたのです。
大方のことは 大工さんにしてもらったのですが
母は 屋根の瓦を洗ったり
木を運んだりして
手伝ったそうです。
駅から近かったので すぐに入居者にも恵まれ
我が家の
貴重な現金収入になります。
初めて建てた
長屋が うまくいったので
母は もう少し収入をあげるために
もうちょっと 大きな貸家を建てることにしました。
初めて建てたのは
いわゆる長屋と いうものです。
母は 次に建てる貸家を どのようなものにするか 迷っていました。
世情に合わせると 同じ 長屋でした。
でも 昭和34年ごろは
アパートというものが
新しく建っていたのです。
中廊下で
両側に
部屋があって
押入があるものです。
台所と トイレは
共同のものが普通でした。
母は 先進的な ものが好きで
アパートを建てることにしました。
でも お部屋に
台所を
取り付けることにしたのです。
入居者が
少しでも便利になれば良いと
考えたのです。
トイレについては
当時は くみ取り式で
普通は
家の外に作ることが当たり前で
お部屋のそばに作ることなど
全くの御法度です。
部屋の近くにあったら
夏 目がしみてしまいます。
お風呂については
バスユニットというような
防水性に優れたものが なかった時代ですので
建物の寿命がながくなるように 付けませんでした。
アパートから 200mの所に
お風呂屋さんがあったので
そこを使ってもらうことにしました。
母が建てることにした
アパートの 建設費は
農協から借りることにしました。
借りる約束もでき 建設が始まりました。
当時としては最新の設備が 付いていました。
当時では 大変珍しい ガスや
タイルの流し
呼び出し電話 などです。
ほとんど
完成したので
建設会社は
お金を請求してきました。
母は
お金を
貸してもらえるはずの
農協に行きました。
でも 農協は
金融情勢が変化したとか言って
お金を貸して下さらないのです。
そこで 困ったのは 母です。
もうすぐ完成なのに
代金が支払えないのです。
大変困った母は
尼崎市の
玉江橋の国道筋にある
銀行街に 新たに貸してくれる銀行を
探しに東から順に 訪れていきました。
昼も過ぎ 3時頃になって
もう銀行街の
西端まで来たとき
やっと貸して下さる 銀行に出会うことができました。
母は
その時 うれしかったそうで
何度も私に話してくれました。
アパートの 家賃は
相場の一畳1,000円で
4.5畳のお部屋は4,500円
6畳のお部屋は すこし値引いて5,500円にしました。
時は高度成長期
田舎から たくさんの人が
大阪に働きに来て
アパートは 盛況でした。
すぐに借金を
返して
母は
私の養育費や
教育費を
得ることができたのです。
それから
昭和35年に
もうひと棟の
アパートも建てました。
アパートの名前は
「藻川荘」と名付けられました。
アパートが建っている
敷地の横に
藻川と呼ばれる
川が流れていたのに 由来しています。
藻川は
国が管理している
1級河川で
アパート付近では
川幅が200m近くあります。
水に関係ある
川の名前を
アパートの名前に付けると
火事にあわないと 言われて
母が名付けたのです。
我が家の家計は
このふたつの アパートの収入で
当分の間は 何とかなっていました。
こんなこともありました。
私が
中学生になった 昭和42年頃
隣の駅の 塚口まで 買い物に歩いて行って
帰ってきたとき
私に 「モータープールを始めようと思う」 と
言ったのです。
その頃は
まだ駐車場のことを
モータープールと
呼ぶとは 知られていませんでしたので
私は
「モータープールって どんなプール?
水泳場でも 作るの」と
聞いたくらいです。
母は
最初に
この地で
青空の貸し駐車場の経営を
始めたのです。
しかし
我が家には
経費が多いので
昭和45年頃になると
赤字になってしまします。
この赤字の原因は
私が
私学の大学に 行くことになったことも
原因のひとつです。
そこで
もっと 建て増すことを
計画しました。
母が
54歳の時のことです。
母の計画は
もっと貸し家を建てることにしたのです。
いろんな形態の貸し家を
建てることにしました。
アパート・文化・ファミリーマンション・ワンルームマンション の
各種貸し家を
その作りも
木造・鉄骨造・鉄筋コンクリート造
各種計画していました。
種類・構造を
かえることによって
リスクを
分散することを
考えたのでしょう。
そして事後小社にとっては
都合の良いことになりました。
建築費はすべて銀行からの借り入れです。
こんどは
銀行としっかりと
約束していたし
時代もそう言う時代でしたので
資金には対して不安はありませんでした。
どうせ借り入れで作るので
母は
子供の名義でも
建設すると言うことで
共有名義で建てることにしました。
計画では3年を要することに なっていました。
木造から建て始め
鉄筋コンクリート造の建設が始まった頃
日本中を石油危機が襲いました。
昭和48年の頃でした。
資材が不足して
生コンが
予定通り入ってこなくなりました。
そんな困難を
乗り越えて
建物が完成すると
入居者の方に
無事入居して頂きました。
核家族化が
すすんでいた時代も
追い風ですぐに借金を返済できました。
しかし
昭和54年頃になると
木造の共同トイレのアパートには
空き室が目立ちました。
当時小社の
アパートの近くには
同じような共同トイレのアパートが
ありました。
そのアパートは
その時代の流れについて行けず
解体され現在も
駐車場になっています。
しかし母は
バストイレ付きに
全面改装するという計画を
実行したのです。
テレビ番組の
『ビフォアーアフター』のように
柱と梁だけ残して
他はすべて 新しくして
お風呂とトイレ付にしてしまったのです。
こうしてアパートは蘇りました。
この様な状態でバブル期を迎えます。
バブル期小社は
他の会社がやっていたような事は
全くしませんでした。
堅実に賃貸業の業務のみを
行っておりました。
大きな利益を得ることもありませんでしたが
バブルが終わった時に損失もありませんでした。
一般的なバブル期は1991年に終わります。
しかし小社の不景気は
1994年から始まりました。
2回目の難関です。
これに対して小社では
2度目のリノベーションを 行うことになります。
空いたお部屋から
順次ロフトを
設置してしていったのです。
ロフト付賃貸の始まりです。
ワンルームは
どんなにお部屋が大きくても
ふた部屋ではありません。
住居の食寝分離
即ち 寝るところと食べるところが一緒の生活は
いろんなトラブルを作ります。
積極的に分離するために
上下分離ーロフトとお部屋ーしたのです。
これは好評でした。
当の本人の母も驚いたほどです。
しかし数年経つと
ハシゴでは上りにくいと
言われる入居者が
出ました。
ロフトを設けるようなお部屋は
小さなお部屋ですので
普通の階段を取り付けると
階段ばかりのお部屋になってしまいます。
省スペースで上りやすい階段を 作らねばなりません。
そこで考え出されたのが
互い違い階段です。
意匠登録もとりました。
階段に比べて
半分のスペースで
上ることができる
ロフトへの階段としては
最適な階段でした。
ウェブに公開すると
日本中から注文の電話が
殺到するほどです。
もちろん入居者にも好評でした。
初期に作ったロフトには
もうひとつの問題がありました。
初期に作ったロフトは
お部屋に上に
作る物で
ひとつのお部屋を
上下に
単純に分かつものでした。
何年か経つと
見学者の中には
天井が低いと言う人が
でてきました。
そこで
お部屋の上に
ロフトを作らず
お部屋以外の場所
玄関や
押入廊下などの上に
ロフトを作る方法に かわりました。
小社では
このロフトを
「第三世代のロフト」と
読んでおります。
明るい高い広い上りやすいロフトの完成です。